人、犬、鳥
チャート・コープチッティ 著
宇戸清治 訳
ある蒸し暑い夕方のことだった……。
彼は庭の端にある石テーブルに腰掛け、白い泡をたたえたグラスに唇を当て、ぎんぎんに冷えたビールを喉に注いでいた。グラスを下ろした彼は、タバコを指に挟んだままの手で豚肉のニンニク炒めを摘まんで口に放り、歯で咀嚼し始めた。
奴――奴とは飼っている黒毛犬だが――、は残ったおこぼれの骨に与ろうとつまみをボリボリ噛みつぶしている彼を見上げていた。
彼は残った豚の骨を吐き出すと、犬の視線を無視してテーブルの上に放った。彼には犬が欲しがっているものが分かっていたが、わざと犬の表情に気づいていない振りをした。その行為の意味を深読みすれば、彼には元から犬をちゃんと躾けたいという望みがあった。もしもいま骨を、それを欲しがっている犬に向かって放れば、犬は骨を平らげた後、次もあるだろうと見越してその後も飼い主を見上げて骨を待つだろう。そうなればそうすることが癖になってしまう。その結果、最後には何も躾のできていない犬に成り下がるのだ。彼は足で飼い主をつついて餌を要求する犬をこれまでに何度か目にしてきた。
その理由をしっかりと考えて、彼は犬のおねだりの眼差しを無視することにしたのだった。
奴――期待を抱いて首をもたげていたその犬――は、元の位置におとなしくお座りしたままだった。それでも視線を食べ残しの骨から外すことはなく、何度か媚びるように尻尾を少し振った。
時間が過ぎると……テーブルの端に置かれた骨の数は増えた。犬は自分を誘惑する骨の香りを存分に嗅ごうとするかのように鼻先をすぐ手前まで近づけた。
犬は少しずつにじり寄ってきてはとまり、じきにまた近づいて、とうとう鼻先にくっつくまでに接近した。しかしそこでストップをかけられた。
「下がれ!」と彼はしかめっ面をして怒鳴った。
さらに大きな声でもう一度「下がれ!」と命じた。
犬は怯んだ。
彼は上に立つ者のパワーを持った飼い主としての威厳をもって犬を睨みつけた。
犬は狼狽したように尻尾を丸めて後ずさりした。すこしは可哀想に感じたが、彼は自分のしたことをこれっぽちも間違っていたとは思わなかった。犬が骨のおこぼれに与れないことは、彼には何の利益にもならないことは事実とはいえ、それでも与えることをしなかった。犬を躾けたかったからである。理由にはもう一つあった。その骨は彼が買ってきて食べた骨付き豚肉の一部であり、彼の所有物なのだから、犬にあげるかあげないかの権限は自分にあるというわけだった。
彼は犬から視線を外してビールをグラスに注いだ……。
しばらくすると犬はワン、ワン、ワンと吠えた。
犬の鳴き声を耳にした途端、彼は気分を害した。てっきり自分に向かって吠えたのだと思ったからだが、それは違っていた。
犬が吠えていた先はファラン〔グワバ〕の木の枝だった。彼が犬の視線の先を追いかけて見上げると、枝にとまっていたのは一羽の鳥だった。興味に駆られた彼はゆっくりと立ち上がると飼い犬に向かって吠えるなと合図した。犬は主人の命令を素直にきいた。
枝にとまっていた鳥は、彼が少しづつにじり寄っても、羽を広げて飛び去る様子を見せなかった。彼は咄嗟に、この鳥は飼われていて人に慣れている鳥かもしれないと考えた。恐らく飼い主が鳥籠の扉を閉め忘れたのだろう。あるいは手元が狂ってうっかり手から放してしまったのかもしれない。そんなことがあって鳥は訳が分からないまま籠の外の世界に飛び立ったのだろう。
彼は、鳥の所有者が誰なのかはどうでもよくて、それを捕らえてみたくなった。鳥はいま自分の家の敷地に迷い込み、ファランの木の枝にとまっているのだ。
彼は急いで家の中に戻ると、手に椅子を持って出てきた。その間に、犬はまた吠え始めた。彼が犬を追っ払う仕草をすると、犬は吠えるのをやめた。
彼は鳥がとまっている枝の下にそっと椅子を置いた。その間にも、彼は鳥を入れておく籠を探す自分の姿を思い描いていた。どんな餌を与えたら良いのか、彼にはまったく知識がなかった。それでも鳥の鳴き声を聞くのも悪くない、自分で飼って所有物にしようと考えたりした。
彼は椅子の上で、口笛を吹きながら鳥に警戒心を持たせないようゆっくりと身体を伸ばした。その間にも鳥を飼っている人がするように休みなく指を鳴らした。それから鳥を掴まえようと注意しつつ手を伸ばした。
鳥はさすがに危険を察知したようで、パッと枝から飛び去り、垣根に降りてとまった。
彼は残念そうに逃げた鳥を見た。希望が一瞬で手から転び落ちたような気持ちだった。それでもきっと籠から逃げ出した鳥に違いないという確信は深まった。飛び方がおぼつかないし、まだ外の世界に慣れていないような挙動からもそうだろうと推測できた。
鳥を捕まえようという希望は潰えたにしても、彼は椅子に立ったまま口笛を吹き続けた。突然、胸の内にある思いがこみ上げてきた。鳥を捕まえられなくて結果的には良かったのだという思いが。あの鳥は自由になりたくて鳥籠から逃げ出してきたのだから。ここで彼に捕まったらまた檻に閉じ込められることになり、自由を失って元の木阿弥になってしまう。鳥という生き物は大空を自由に飛び回るべきだ。彼はそこで口笛を吹くのをやめ、鳥を見続けた。
あの鳥は自由を求めて逃げたのだ。それを自分はなぜ捕まえて閉じ込めようとするのか。それは駄目だろう。そう考えると彼は晴れ晴れした気分になった。
犬は依然として彼のそばにいたが、彼には食べ残しの骨や皿の焼き豚を案ずる気持ちなどもうすっかりなくなっていた。
鳥は垣根からまたファランの木の枝に戻ってきた。ただ、今度止まったのは別の枝だった。
彼は、掴まえようとさっきと同じことを考えながら椅子をその枝の下に持って行った。鳥に近づけたら、今度は一気に手で摑むようにしなくちゃ。彼は椅子の上でゆっくりと身を起こすと、相手に気づかれないようにそっと手を伸ばした。見たところ、鳥は最初の時よりは小刻みに身体を震わせていた。ゆっくりと手を伸ばしても、鳥は依然として震えながら枝に止まっていた。
ぎりぎりまで近づくと、意を決して鳥を摑みにかかり、尻尾をしっかりと摑んだ。尻尾を握りしめながら、彼は鳥を掴まえたことを喜んだ。
災難に気づいた鳥は、何とか逃げだそうと力一杯羽をばたつかせ、最後には彼の手から逃れた。しかし尻尾の羽だけは彼の手に残った。
彼は逃げた鳥のあとを目で追った。鳥は大慌てで彼の視界から消えた。
最初はしまった、しくじったと思った。だが手に残された尻尾を見ると、かわいそうなことをしたという気持ちになった。これでは飛ぶのもひと苦労だろう。飛翔の方向をつかさどる尻尾を失ってしまっては子供に簡単に捕まってしまうか、大空高くまで飛べずに他の動物の餌になってしまうかもしれない。
ただ、もしもそれらの危険を免れることができたら、そのうちにまた尻尾がきれいに生え揃うだろう。だがその間の餌はどうやって見つけるのか? そう思うとかわいそうになった。
自分は鳥の生き死に関わるべきではなかった。鳥をこんな風に不自由にするのではなく、最初から鳥が望むように大空に自由に羽ばたかせればよかったのだ。
彼は落ち込んだ気持ちになって元のテーブルに戻り、椅子に腰掛けた。それからさっきやった事を反芻した……。
奴だ――テーブルの端にうち捨てられた骨を見つめてクンクンと鼻を鳴らしていたのは飼犬だった。
彼はその方を振り返った。おまえのせいだぞ、鳥が羽を失って、これから大変な目に遭うようにしむけたうえ、俺に無念の気持ちを起こさせたのは。
最初からおまえが吠えていなければ、自分は鳥を発見することもなかったし、その後の事態も起きることはなかった。
すべてはおまえのせいだ。
彼は拳骨で犬を叩いた。ボコッという音がして、犬はキャンキャンと鳴き、逃げていった。
彼は依然として手に鳥の尾羽を握りしめたまま、逃げ去る犬を見つめていた。
(1984年4月19日脱稿)
(短編集 『マイペンライの都』第5版、1999年6月、 24-29~22頁)
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