較べてみれば

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較べてみれば

チャート・コープチッティ 著
宇戸清治 訳

「おお……」
 突然だったので、わたしはそれだけ発するのがやっとだった。彼だとは夢にも思わなかったのだ。
 私が親友だと思っているその友人はトランクを携えてドアから入ってきた。
「本当に気楽な奴だな、おまえは。とっくにお天道様が昇ってるというのに、まだ起きてないのか」と親友は軽口を叩いた。
「おれの勝手だろう。また何だって来た?」
「四、五カ月、おまえの所に世話になろうと思ってさ」と彼は冗談ともつかぬ事を言った。
「そうか。じゃあ、おれはシャワーを浴びてくる。お喋りする時間は何カ月もありそうだしな」  
……水浴びをしながら、私は彼が来た理由を考えないわけにはいかなかった。いつもなら、彼が私の所へ来るときは、手紙を書いて寄こすか電話をかけてくるのが常だった。しかし、今回は前触れなしに不意に現れたのだ。
(夜逃げしてきたのか?)
「またやられたのか?」
 私は否定の言葉を予想して訊いた。
「ああ」
 彼はコーヒーカップを置きつつ答えた。
「人に騙されて、なぜおまえの方が逃げ出す道理があるか?」
「あそこにいたら、毎日、憎い奴の顔を拝まなきゃいけないんだぞ。今に堪忍袋の緒が切れて、あげくには殺傷沙汰を起こしてお縄頂戴になるかもしれんと思ってな」
 彼の声はこわばっていた。
「たったそれだけの理由で?」
「他の奴になら騙されてもどうって事はない。よりによって相手は親戚なんだ。あんな事、よくも平気でできるもんだ」
 私には、彼が自分自身に向かってそう言い聞かせているように聞こえた。
「で、何があったんだ?」
「相手が住宅建設事業に一口かまないかと誘ってきたんだ。おれは何も分からなかったが、信用したさ。親戚だしな。それに、金は出したが口は挟まなかったよ。追加の資金も何度も出した。ところが最近になって、結果は赤字だったと奴が言うんだ。赤字なら赤字でしょうがない。いっしょに損害を被るしかない、そうだろ? ところが事実はそうじゃなかった。おれが手を引いたとたん、奴は利益を独り占めしたのさ」
「いくら持っていかれたんだ?」
「四十万バーツは下らない」
「おう、かなりでかいな」
「ああ、でかい。親戚だけに、悔しさも人一倍さ。親父が死んだと思ったら、もう掌を返しやがって」
「あのさ、もう忘れろよ。済んだことだ。覚えておくんだな、二度と簡単に人を信用しないって」
「二度とあるわけがない。丸裸になったんだからな。残ったのは何ライ〔一ライは千六百平米〕もないランブータン園だけさ」
 彼はよく聞き取れない声で言った。
「これで女房、子供がいなけりゃ、果樹園なんかさっさと売り払って上京するところだ」
「おい、落ちつけよ。馬鹿なことを考えるな。おれよりましじゃないか。おまえには果樹園も自宅もある。おれを見ろ、おれに何がある? この家だって借家だ」
 私はありのままを言った。
「それでもおまえの方がおれよりずっとましだ……」
 彼は私の慰めに納得しなかった。
「……ここのところ、毎晩酒に頼ってる。酒がないと眠れなくなった」
「ところで、ここへ来たきた理由は他にもあるのか?」
 私は話題を変えようとした。
「いいや。おまえに会いに来ただけだ。しばらくいて、気が晴れたら家に戻る」
「それがいい。ゆっくり休んでいけ」
「迷惑じゃないか?」
「おいおい、今さら何を言ってる。迷惑だったらとっくにかけてるくせに」
 私は笑った。
「トランクをしまってシャワーを浴びてこいよ。いっしょに出かけよう」
「どこへ?」
「友達と待ち合わせてるんだ」
 友人はトランクを持ち上げて部屋に入っていった。私は座ったままコーヒーを飲んで待った。
 彼は元はといえば私の友人のまた友人だった。たまたまそうなる運命だったのかどうかは知らないが、時を経て私たちは親友同士になった。互いに別々の学校に籍を置いていたにもかかわらず、しょっちゅう行き来をする仲だった。そんなある日、彼の方に「至急帰郷せよ」という電報が田舎から届いた。それからしばらくして、彼から「親父が喧嘩で撃ち殺されてしまった。たぶん、しばらくここで足止めを食らうにことになりそうだ。実家にはおれ以外に親父の仕事を継ぐ者がいないから」という手紙をもらった。それ以来、私たちはあまり会うことがなくなり、手紙で近況を知らせ合ったり、彼が用事か何かで上京したときに会う程度だった。そんな際に、彼は仕事にまつわる悩み事を洗いざらい私に打ち明けることがままあった。それが仕事にまだ不慣れなせいなのか、それともそうとも言えないのかは私にはよく分からなかった。私なりに彼の打ち明け話から分かったことといえば、事業が赤字になったり、お金を騙し取られたり、保護料とやらを要求されたりして、彼の父親の遺した財産が日毎に目減りし、以前より良くなった事など何ひとつない、加えて、彼の父親が苦労して築き上げた一族の名声さえも地に堕ちる一方だ、ということだった。彼が前回私を訪ねてきたときなどは、私は彼がとても酔っぱらって大声で泣くのさえ目にした。
 今日、会う予定になっているもう一人の友人の方は、ずっといっしょの学校で勉強してきた仲である。四、五日ほど前にその彼から手紙が届いた。手紙の内容は手短かに言えば、今とても困っている。何とか助けて欲しい。家に訪ねていきたいのだが、場所がよく分からない、というものだった。私は手紙の返事をしたため、横町の入り口付近にあるバス停で彼と待ち合わせることにした。
「かなり待った?」と私はバス停にいた友人に尋ねた。
「いや、来たばかりだ」
「食事は済んだのか?」
「もう済ませた」
「おれの方は朝飯まだなんだ……」
 私は言った。
「あのさ……こっちはおれの古いダチ。南タイから来たばかりでさ」
 私は二人を互いに紹介した。彼らは型通りの挨拶を交わした。
 私は二人の先にたって麺屋に入り、テーブルに陣取った。
「何にする?」
「おれは本当に食ってきた。そっちは頼めよ」
 私が友人と麺をすすっている間、彼は煙草をふかしていた。元気かとも何とも尋ねなかった。そのうちにお腹がいっぱいになった。
「で、何があった?話してみろ」
「大変なんだ」
 彼は微笑んだ。
「おめえの家に帰ってからでいいかな。長い話になるから」
「いいよ」
 私は麺の支払いを済ませて店を出、市場を通りかかった。
「おーい、ちょっと待ってくれ」と友人が後ろから声をかけた。
 私は立ち止まって振り返った。このかつての級友の片方の脚が不自由だったのをすっかり忘れてしまっていたのだ。それに、今初めて気がついたのだが、彼の歩き方は以前よりずっと難儀そうに見えた。学生時代はどこへ行くにもいっしょだったが、その時はちゃんと私の歩調に合わせられたし、待たされるなどということはなかった。
「おまえ、脚どうしたんだ?」
 彼がやっと追いついたとき、私は訊いた。
「折ったんだよ」
 彼は短くそう言うと、笑った。
「いったいどうして?」
 ドジな奴だなと私は思った。
「階段から落ちた。折れたのが不自由な方の脚だったのが不幸中の幸いといえば幸いさ」
 彼は大きな声で笑った。
「で、相談て何だ?」
 お冷やの入ったグラスを渡しながら、私は彼に尋ねた。
「おれ、絵を描いてギャラリーに持っていきたいと思ってるんだ」
 そう言って、彼は水を飲んだ……。
「本気なんだ。冗談なんかじゃないよ」
 彼は私が鼻で笑ったと思ったらしい。
「おいおい、例の仕事はどうなった?」
 前回、私が最後に彼と会った際、これから友人と株を持ち合って一緒に広告会社を設立するんだという話を彼から聞いていたのである。
「もう辞めてから三カ月になる」
「おまえ、株を持ってたんじゃないのか?」
「株なんて糞くらえさ。奴はおれを騙したんだ。あれこれと仕事に精をだして、会社の方はなんとか軌道に乗った。ところが奴は突然、おれは脚が不自由なせいで性格に問題がある、会社の経営者には向いていない、と言い出した」
「そんなこと何の関係もないはずだ」
 南タイから来た友人が口を挟んだ。
「おまえを追い出す口実を探してたんだな」と私は言った。
「おれだって拒否したさ。しかし、奴は徹底的に社内イジメをやってきた。信じられるか? 会社の連中が誰一人おれと話そうとしなくなったんだ」
「そんなでたらめな」
 南タイの友人は彼と一緒の気分になって怒り始めた。
「それで、どうしたんだ?」
「とうとう我慢できなくなって、辞めたよ。新しい仕事を探そうと思ったんだが、なかなか大変で、ちっとも見つからない。しまいには女房にも逃げられた」
「えっ、おまえに奥さんがいたなんて知らなかったよ」
「ああ、まだ何カ月にもならなかったから。考えてみれが可哀想なことをした。脚の不自由な夫じゃ世間体も悪かったろうし、それに失業者ときてる。誰だって我慢できないさ」
 彼は滑稽な話さという風に自嘲的な笑いを浮かべた。
「まるで小説みたいだな」
「そうさ。脚の骨を折ったのもそれが原因だよ。仕事探しに出かけて家に戻ると、女房の衣類がなくなっていた。多分逃げ出したんだろうと思ったよ。そのころ大喧嘩をしたことがあったからな。あんまりせつなくて、酒を買って飲んだ。酔っぱらってわけが分からなくなり、階段から転げ落ちたんだ。アパートの住人が手伝って病院まで運んでくれたので助かったよ。退院してからは独りぽっちで、どこへも行けなかったし、手持ちの金は毎日減っていった。ギブスがとれて歩けるようになったので、また仕事探しに出かけたんだが、どこも雇ってくれない。今は景気が悪くて、あちこちで会社がたくさん倒産してる始末だし、見かけるのは馘になった連中ばかりでさ……」
「で、おれにどうして欲しいんだ?」
 彼が黙り込んだので、私はおもむろに訊いた。
「君に絵のテクニックを教えてもらえないかと思って。学校で勉強したこととは勝手が違うんだ」
 彼の声には真剣味がこもっていた。
「本気なのか?」
 私はまだ彼が冗談を言っているのではないかと思っていた。
「本気さ……。このごろよく眠れなくて、毎晩薬のお世話になってるんだ。そこでおれなりに考えたんだが、夜中に何か仕事ができればすごく好都合だし、それに、あまり悩まなくていいんじゃないかと思うんだ。昼間は職探しに出かけ、夜中は絵を描く。もし絵が売れれば金になるだろう。こんなおれを助けられそうなのは君しかいない。おまえの仕事を奪いに来たなんて思わないでくれよ。おれには他にもう道がないんだ……」
「そうか、気にするな。分かった、大丈夫だよ」
……私は、絵描きとしてこれまでの経験から得たテクニックを彼に詳しく説明してやった。合間には、彼がよく理解できるよう試しに描いてみせたりもした。
「描けたらおれのところへ来てくれ。画廊に連れていって、売ってくれるように頼むから」
 私は彼だったらやれるに違いないと確信した。
 その日の夕方遅くに用事は片づき、彼は帰った。私と南タイの友人はバス停まで彼を見送るため歩いて行った。バスを待つ間、彼は言った。
「この頃、毎日おれが何を考えているか分かるか?」
「いや。何を考えてる?」
「おれが考えていることは、世の中にはおれよりもずっとひどい目に遭っている連中がたくさんいるってことさ。時々、物乞いとか視覚障害者とか片腕の身体障害者を見かけると、なんだかホッとするよ。おれはそんな連中よりもずっとましなんだと思ってね。これ本当だよ」
 と言って彼は笑った。  私たちは彼がバスに乗ったのを見送ると、道路を渡って路地に入り、家に帰った。
「考えてみると、おれの方はおまえの友達よりずっとましかもな。騙されたのは同じだとしても、おれの女房はまだ逃げ出しちゃいないわけだし」
 南から来た友人はそうつぶやいた。
「そうだな。ああいうのを見ると、ホッとする」と私は応えた。
 同時に内心では、彼がつい今さっきつぶやいた比較の言葉に引っかかるものを感じていた。道路端の物乞いを見ると安心する、と彼は言った。それなら、その乞食たちは自分の身を一体誰と比べて安心するのだろうか。


             (1984年3月9日脱稿)

 (短編集 『マイペンライの都』第5版、1999年6月 、15~22頁)

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